田舎の囲炉裏

冬は赤々と燃える火が、夏は表庭から裏庭へ吹き抜ける涼風が、田舎の囲炉裏に坐るあなたの心身を癒してくれる、そんなブログを目指しています。
 
2017/05/26 3:54:23
傾聴に値する思想家の言
思想家・内田樹(うちだ たつる)氏の「立憲主義廃絶への一本道」と題する寄稿文が5月24日東京新聞朝刊に掲載された。正鵠を射た文意に感銘したので主意をご紹介したい。

「共謀罪の法としての瑕疵、審議の異常さについては論を待たない。法案成立後、思想統制は中央集権的に行おうとすれば大変なコストがかかるから、政府は「市民が市民を監視し、市民が隣人を密告する」制度を作り出そうとするであろう。

私が特に興味を持つのは、特定秘密保護法、安保法制、共謀罪を経由してやがて改憲に至る文脈である。これは立憲デモクラシーの廃絶と一党独裁を目指す一本道なのだが、なぜか「国民主権を廃絶する」と明言している政党に半数以上の有権者が賛成し続けている。

18世紀からの近代市民社会の歴史は、個人の権利を広く認め、国家の介入を制限する方向で進化してきた。にも関わらず、私権を制限され、警察の恣意的監視下に置かれるリスクを当の市民たちが進んで受け入れると言っているのだ。

市民たちは「理性を失っている」と言ってもいいが、それよりも「国民は主権者ではない」ということの方が日本の現実であろう。戦後生まれの日本人は生まれてから一度も家庭でも学校でも、職場でも、社会改革を目指す組織においてさえ「主権者」であったことがない。常に上意下達の非民主的組織の中にいた。上位者の指示に唯々諾々と従う者の前にしかキャリアパスが開けない世界だった。その意味では、現代日本人は生まれてから一度も「民主的な制度」の中に身を置いた経験がない。だから、私たちが「立憲デモクラシーなどと云うのは空語だ」と思ってしまうのは経験知に照らせば当然なのである。

日本人にそもそも「主権者である」と云う実感がないから「国民主権を放棄する」ことにも特段の痛みを感じない。会社員は会社の経営方針の適否について発言する必要がないと思い込むに至っている。

それは経営者のさらに上には「マーケット」があり、経営の適否を過つことなく判断してくれると彼らが信じているからである。「マーケット」を読み違え、売り上げが減り、株価が下がれば経営者はたちまち座を追われる。

それと同じシステムが国レベルでも存在する。日本の統治者のさらに上には米国がいる。米国の国益を損ない、不興を買った統治者は直ちに「日本の支配者」の座を追われる。これは72年前から一度も変わったことのない日本の常識である。統治者の適否の判断において「米国は決して間違えない」という信ぴょうは多くの日本人に深く身体化している。それがおのれの基本的人権の放棄に同意する人たちが最後にすがりついている「合理的」根拠なのである。」

上記の記事は、日本国民に対する厳しい警鐘と筆者は受け止めた。