ヒロケンGG

2006年7月12日、暇な老夫婦ヒロとケンが初めてブログに挑戦。 好きなGiantsとGardeningから「ヒロケンGG」と名付けてスタートしました。 2013年2月末現在、6年8ヶ月、2410日で2437記事を投稿。520219のアクセスを戴きました。1日、1記事あたりのアクセスは平均約215件弱。皆さんのおかげと感謝しております。 頑張ります。今後ともよろしくお願いいたします。
 
2016/08/15 9:34:10
焼夷弾の雨 辺りは火の海
  私は、その当時、警官として台湾に渡った父、父との写真見合いで結婚を決め
  一人で台湾に渡った母は、港で待っていた初めて合う父と警察宿舎に二人で
  住んだという。そこで生まれた僕は訳の分からぬ台湾生活を過ごしている。
  一年前に生まれた姉は、病気でなくなったという。記憶は薄い・・・・。
  日本本土の戦後は知らないが数年後やっと引き上げて、鹿児島で一ヶ月
  胃腸不良で入院した鹿児島病院を退院し、母の実家に引き上げてきた。
  小さいながら、立派な戦争経験者の一人だと思い出したくないが、忘れる
  忘れたことはない・・。思い出すことは少なくなってはいるが・・・・・
 
「焼夷弾の雨 辺りは火の海」
<読売新聞 8月15日 気流 >
 
 ◆  1945年夏、夜中に「B29」が独特の轟音(ごうおん)を響かせて来た。
     当時、兵庫の西宮市に住んでいた私は国民学校4年生だった。
     空襲警報のサイレンが鳴り、私たち家族が防空壕に入った直後、
     焼夷弾の雨に見舞われ、辺りは火の海と化した。頃合いを見て、
     父の誘導で近所の小川に逃げた。
     母の頭に布団をかぶせ、上から水をどんどん掛けてくれた。
     近所の商店では瓶がパンパンはじけて、飛び散っていた。小川
     付近の壕(ほり)の外で、幼い子が泣いていた。足には火のついた
     油がべっとりとついていた。
 
 ◆  翌朝、焼け野原を歩いて、自宅のあった場所に戻ったが、跡形も
     なかった。あの子は亡くなったと、母が痕で教えてくれた。
     戦争はむごい。テレビで見る戦争ドラマとは違う。
 
         無職 沢田 淑子 さん 80歳 (石川県小松市)
    
 
  外国にいた小さい子供だったので、戦争いや敗戦の日本は今でも忘れたくても
  忘れられない年代である。
  戦争して、負けて、苦しんだ我々世代は、自分たちに責任はないとは確信して
  いるが、複雑な年代ではある。
  妻も、広島近辺に住んでいたが、原爆が落とされた時は、母と共に府中市に
  疎開していたので逃げられた。わが夫婦は原爆の影響に苦しんだ。
  もちろん一番大変だっのは、私たちの親であったのだが、今はいない。
  天空から覗いてくれている。妻はタンスに奉った両家の写真を飾っている。
  私の両親及び妻の両親の位牌を全て造り、タンスの一角に飾っています。
  妻は毎日?週に2〜3回?新しい果物を買った?折りなどに飾っています。
  飾るより食べた方がいいよと言いたくても言えません。
  一度、ご両親の位牌に頼んでみようか〜〜〜