| <小 説> アイスクリーム
澤 治夫 一 発車のベルが鳴っている。誰かを怒鳴りつけてでもいるような、けたたましい響きが鳴りやまない。圭太は父の戻りを待っている。 電車が大宮駅にさしかかったとき、圭太は、父にアイスクリームが食べたいと言った。ことさら駄々をこねて欲しいとねだったわけでもないのに、父は、 「よし、それじゃ、つぎの大宮で買ってやるよ。この電車は停まっている時間がちょっと長いから買えるものな。」 そう自信あり気に笑っていたのに。ベルの音は父に対して鳴り響いているにちがいない、と圭太は思った。 扉が閉じた。ゆっくり車両がホームを離れて行く。圭太はそれでも、父は現れるのだと信じている。丸い紙カップのバニラアイスを手にした父はきっと別のドアから飛びのってじぶんのいる席にいま歩いてくるところなのだ、と確信している。 ベンチシートの社内には秋の日の午後のやわらかい日差しがあふれていた。圭太のすぐ横には中年の勤め人の男が二人ともうたたねしている。差し向いには上品な藤色のぱりっとしたスーツ姿の婦人がときおり日差しを除けようと手で顔をおおったりしている。 圭太は首をのばして後ろの車両を眺めてみた。土曜の午後の電車は乗客が疎らで、車輪のきしむ音ばかりがひときわリズミカルに耳を拍った。 浦和駅に着いても父はやって来なかった。圭太はさっきから自分に目線を送るスーツの婦人が気になり出してはいたが、それ以上に後方の車内の中ほどのシートに座っている男が心を占めた。 ―なあんだぁ、とうちゃん、あんなところに平気な顔して座ってらぁ。ボクに気づかないなんて、どうかしてるよ。 父はいま流行り(昭和三十五年当時)のリーゼントヘアの髪型だった。ポマードを塗った側髪が日に光り、濃紺色の背広を着ている。圭太にはその男が父と瓜二つに映ったのだった。ひとりぽっちで電車に揺られているあいだに、その男を父親だと思い込むことで心細さや不安を抑えつけようとしていた。 けれども男の人はいっこうに圭太へ向きを変えなかった。そればかりか床ばかり見降ろしてかたくなに面を上げようとはしなかった。 するとスーツの婦人がそばに来て訊ねた。 「ぼく、ひとりで電車にのってるの?」 圭太ははにかんだ。うん、とも、ううん、とも答えなかった。 「さっきのおじちゃん、誰? 大宮駅で降りたひとよ?」 また、はにかんだ。 彼女はしゃがんで彼と同じ目の位置から話しかけた。そうして、ぶらぶら揺らす彼の脚をそっと抑え、 「お父さんじゃなかったの?」 圭太は口をとがらせて、 「うん、そう。オトウサン。」そう言いながらも顔はあの男にいって「でもね、あっちの電車の中にいるんだよ。ほら、あの男のひとだよ。」 男児がいまにも泣き出しそうに懸命に堪えているので婦人は、彼の手を取って立ち上がった。ちょうどそのとき、車掌が二人に近づいてきた。 圭太には、婦人とお巡りさんのような帽子をかぶった青年がいったいどんなおしゃべりをしているのかよく判らなかったが、この子の父親が大宮駅で、とか、アイスクリームがどうのこうの、とかがちぎれちぎれにきこえてきた。 「オオカワケイタくんですか?」 自分の名前を呼ぶ帽子の青年の大きな顔が圭太の瞳に映った。怖くなって急に足がすくんだ。口ごもっていると、婦人が、このオジサンはでんしゃの運転士、これからケイタくんをオトウサンが待っているところへ案内してくれるわ、とささやきかけた。 「ほんと?」 「うそじゃないさ。きみのお父さんから連絡があってね、この先の赤羽駅で待ってるようにって。」 青年は帽子をとると圭太にかぶせた。ハッカのまざったような甘い匂いがした。 ―あ、とうちゃんみたいなにおいっ。 そう感じると、なぜだか泣きべそをかきそうになった。けれども圭太は帽子のつばをぐっと口もとまで下げてがまんした。 青年はそんな圭太に、 「なんだか帽子をかぶっているんじゃなくてかぶられてるみたいだなぁ。」 と、笑顔で言うと、 「それっ。」とかけ声をかけて圭太を抱き上げた。車掌室に移動する前に圭太は青年から促され、婦人にアリガトウと礼を言った。 「みじかいけれど、はじめてのひとり旅だったのよね。えらいわね、泣いたりなんかしなかったんだもの。」 そう婦人はほほえんで答え、帽子を少し持ち上げて圭太を見、 「じゃ、さようなら。」と言った。 赤羽駅まで彼はいちばん後ろの車輛の運転室のなかにいた。丸いハンドルやレバー、こまかな数字が書かれた速度計、いくつもついた大小の円形の計器類に目がまわるようだった。 赤羽駅で事務室に姿を見せた父は上着を脱いでしきりに額の汗を拭き、何人もの駅員に頭を下げた。わが子のためにアイスクリームを買いに電車を降りた、たっぷり停車するものと思っていたものが、うっかり思い違いをして乗り遅れ、五歳の子を車内に残こしてしまった顛末を話すとあちこちから笑い声が起きた。父は圭太を抱きかかえてしきりに苦笑した。
二
約束の時刻より二時間以上も遅れて着いた理由を圭太の父は楽しむように喋っている。 ここは赤羽駅から徒歩で二十分ほどの、丘陵へとつづく途中の傾斜地を拡げた、家々が建つ一画だった。父の生母の家だった。圭太はいつのころからか、その女性を“あかばねのオバちゃん”と呼んで親しんでいる。 「ふあっ、ふあっ、ははははぁ。」 そのオバちゃんが前歯の金歯のかがやきみたいにきらきらの笑い顔をした。 「ケイ坊、そりゃぁ、あんた心細かっただろうね。」 と言うと、父は 「駅のひとからは、『お宅のお子さんは躾がしっかりしとりますね、お行儀よく温和しいし、がまん強い。どことなくヒロノミヤ様に似てますな』なんて、かえってほめられちゃったんだよ。」 圭太はまったく耳にしたことのないヒロノミヤという人の名前を、父は三回も口にして上機嫌だった。 オバちゃんが、ところでそのアイスクリームはと訊くと、父は恥ずかし気に頭をかいて、 「この子が乗てってしまった電車をぼうぜんと見送って、あたふたと駅構内を駆け巡っているうちに、ふと気づくとまだずっとビニール袋を手にしていて、なんだか重いのさ。ベンチに腰かけてのぞいたら、すっかり溶けてたよ。」 「ふあ、ふあっ、はははっ。」 またもオバちゃんが女性にしては豪快に笑って、「よし、それじゃ、あたしが特性のアイスをつくってあげましょう」と言った。 「やったーッ。」 圭太は歓声を上げて飛び跳ねた。 「とは言ってもね。かんたんなものしかできないけどさ。」 オバちゃんはさっそく台所に立った。テーブルのヘリを把み少し爪先立ちして圭太は彼女の手つきを見た。生タマゴを三ッ、白身を除いて黄味だけをボウルに落とし、それに砂糖と牛乳、ハチミツを少量加えてしっかりとかき混ぜる。乳黄色のクリームがむらなくでき上がってから、草花や動物の姿を型どった製氷機に流し込んでいく。 「ケイ坊もやってみるかい?」 とすすめられると、彼は椅子の上に立ちボウルからクリームをすくって流し入れてみた。オバちゃんは、上手だね、と言い、圭太を夢中にさせた。 「あしたの日曜日にはたくさんできるよ。こんどはアイスクリームが乗り遅れることなんてないからさ。ふあっ、ふあっ、ははは。」 そう言うオバちゃんの声に父は、まいったな、とひとりごとのようにもらした。 その夜はオバちゃんの夫も加わってにぎやかな食卓が囲まれた。圭太の父と夫は久しぶりに酒をくみ交わしては昔話が弾んだ。 圭太は昼間の疲れから先に床に入り眠ったのだが、隣室からもれる人声に目をさました。わずかに開いたふすまの隙間からさす明かりがこぼれて、大人たちの話すくぐもった響きがはじめて他所の家に泊まる圭太に畏れを抱かせた。それに暗い室内で周囲を見渡していると、床の間の掛け軸に描かれた虎や天井のはめ板に浮き出る波形の絵模様などがうごめき出して、自分に迫ってくるような気がした。 圭太がふすまを開けて、強ばったように立つと、オバちゃんが、 「なあんだ、やっぱりねむれないんだね。じゃあ、こっちにおいで。」 と手招きした。 彼女の膝の上は想っていたよりもやわらかく温もりがあった。 父と夫はすっかり顔が紅くなり、おだやかなまなざしを二人に向けた。とっくりには、まだ酒がのこっている。夫が父に注ぐと、 「おじちゃん、俺はもう。」と断った父が、とっくりを持ち替えて逆にすすめたりしていた。 「ふうーっ。」 と父が酒気を追い出すでもするように息を長く吐いた。そうして、東に向いた窓硝子を開けた。木枠の張り出した手すりにもたれていると、いくぶん冷んやりとした夜気が居間に忍び入ってくる。 「ああ、下町の夜景がとってもうつくしいですね。おじちゃん。」 「どれどれ。」と応じて、夫はおちょこを持ったまま父の脇に並んだ。 「日中は、ごみごみとしていてうるさいばかりの街の姿がね、日が落ちるころには一変してしまうんですね。様々な光彩を放って、なんだか宝石をちりばめているみたいじゃないですか。」 父はそう言って夜景から目が離せない。 「見なれている夜景なのに、そう言われてみると下町には灯りが増えてきたなあ。」 夫は盃をなめて、つづけて言った。 「自分がこの女(ひと)と所帯を持った戦後まもなくのころにはぽつりぽつりとわずかなみかん色の灯りがともっていた程度だったのに。灯り、ひとつとってみても、くらし向きが、あのころとは比べものにならないくらいゆたかになったんだな。」 オバちゃんが圭太を背中に背負っていつのまにか彼らの後ろから夜の街を眺めていた。 しばらくそうしていると、高架線を走るすぎる電車の音がきこえた。すぐに黄色くにじんだ車窓の四角いつらなりが、がたんがたんとつづいていった。圭太にはその様子が夜空を駆け抜ける乗りものに想えた。 「えっ、あれは何?」 「いま走っている電車はね、赤羽線というなまえの電車なんだ。赤羽から池袋のあいだを行き来してるんだよ。」 おじちゃんが話してきかせた。 「じゃあ、イケブクロとアカバネを夜になると空とぶ電車に変わるんだね?」 「ははん」とおじちゃんは納得したように、「みんなを乗せて飛んでいるのかしれないぞ。」 と言った。 オバちゃんは背中の圭太をもっと窓の外へ差し出すように姿勢を変えてやった。 「あたしも飛んで行ければいいね。オバちゃんだったら、そうだな……」と思いめぐらし「昭和って時代が始まったころにでも飛びたいなあ。」 「ショーワ?」 圭太がつぶやく。 「そうだよ。あんたの父さんが生まれたころのことさ。」 圭太はオバちゃんの背中に頬をくっつけて、父の横顔をなんだか不思議な気持で見つめた。
三
新ちゃん― あなたに逢いたくて、むしょうにあなたの顔が見たくなって幾度も汽車に飛び乗ったことがありました。けれども途中でひき返すことのほうが多かったような気がいたします。あなたを見捨てたわたしにいまさら逢える資格なんてありませんからね。乳飲児のあなたを一年三ケ月の間そだてたのに、どうしてあのようなことをしてしまったのか……。いまになってもあのころの自分の心の根がつかみとれないのです。わたしという、まぎれもない情を失くした鬼面の野獣が棲んでいた、としかいいようがないのです。 あなたを産み落としたとき、わたしを見守っていた二人の姉さんは蒼ざめました。難産の末に産声を上げた男の子は目方が足らず、泣く声も力なく弱かった。あなたのほとばしる男児らしい泣き声を耳にしたように感じたのは、きっとはげしい苦痛にさいなまれたために生じた幻聴のせいだったのかもしれません。姉さんたちは、これでは母子とも死んでしまう、となかば観念したといいます。けれども彼女たちは、あなた―これから新しい生を生きていかなければならないあなたのことより、わたしのいのちを案じていたのでした。しばらく赤ん坊は放っておかれ、まわりの人たちがわたしの介抱にあたりました。それほどに赤ん坊は、生まれたすぐ後からいのちの限界をさまよったのです。 さいわいわたしたちはその後、短い期間ではありましたが、母と子のくらしを果たせました。父親のない子を人一倍慈しんでくれたのは姉さんたちでした。あなたがこの世に出てきた日に見放そうとした姉さんたちには贖罪のためにも、あなたに全身全霊をかたむけたのだと思います。あなたがりっぱに成人するまで彼女たちの手で育てようと誓い合ってさえいるのですから。――なのに、そんな堅い誓いも、わずか一年と三月で終わってしまったのです。 道ならぬ恋に落ちた相手の細君が、わたしの子を自分の子どもとして認めるといいだしたのでした。姉さんたちの憤りは想像するまでもありません。断りつづけて、話し合いになど応じませんでした。拒みとおしていたところに、相手の男は、これまで姉やわたしたちが積み重ねた養育料を支払うと申し入れてきたのです。それは、わたしたちの目を疑う額です。家一軒が建つ金なのです。しかしその代わりに今後は何があろうとも子どもには関わり合わない旨の一筆が添えられてありました。上の姉は、おまえは生まれ変われ、と説きます。次の姉も、わが子を失うのは忍びないが、これからおまえが生きていくうえでは何もなかったんだと思い、別人になれ、と言うのです。巷に転がる話を地でいくような、金に目が眩んだあげくの身売りみたいなものだったのでしょうかしらねェ。でも、わたしたち姉妹にはふた親ともとうに亡くなっていて、赤貧洗うがごとくのくらし向きでしたから、そんな大金にうろたえぬほうがじつはどうかしているのかもしれません。 わたしは泣き疲れ果て、自暴自棄を起こしたあげくに、男と刺し違えて死のう、そう思ったのです。 姉が二人そろって近くの川の堤まであなたを抱っこして出かけたとき、わたしは衝動的に下駄をつっかけて住まいの長屋を後にしたのです。戸外はどんより曇っておりました。朝方なのか暮れ方なのかもはっきり覚えてはおりません。前のめりに、いそぐ足はいまにもつまずいて転びそうで、滑稽な様でさえあったでありましょう。屋根の上に大川米穀商と太い彫り上げ文字の書かれた看板を見上げました。男が見えたら突進していく。刃先のとがった包丁の柄をにぎる手指が石のように固まってしまい、はがしようにもはがせない。胸懐に右手をさし入れて、ただひたすら 待ち受けていたのです。 仄かに明るい店の土間に、男の咳払いがする。店の脇には大八車が停まっていて米俵が三俵載っていました。米一俵を易々と担ぎ上げて積んでいく男の、力こぶで盛り上がった両肩には玉の汗がたくさん浮かんでおります。 「忠さんっ。」 彼は額の汗を拭いただけで、わたしには気づかない。 「ねェっ、忠さんってばぁ。 わたしに視線をやったときの、じつにもの憂げな彼の顔つき。……をもとめるときに見せる表情が、このときにも同じくあったのです。すると、男を見たときに、つい猫なで声で問いかけていたわたしの内側にあった憎悪の澱がさかんに咽喉にこみ上げてくる。檄するように血がたぎり、どくんどくんっと鳴りひびいている。 ――― かろうじてわたしを躱した忠さんは、よろけた拍子に尻もちをつきました。どしんっと地面が音を立てました。彼は何が起こったのか、これから何がいったい起ころうとしているのかを、ようやくつかみかけると、その目が生気づいてきたのです。しかし、わたしがじりじりと距離をつめていくものですから目の色が恐怖に塗れ、尻を這わしたまま後ずさりする始末。忠さんは自分がどれほど惨めな醜態を曝しているのかも知らず、まあ、まあ、まあ、などと、つっかえ、つっかえ、息を乱して謝罪している。まるで憐れみを乞うているようでもある無様な男が怯えきって、刃先を凝視しがたがたふるえて、もがいているのです。わたしは、いっきに突いて死のうと覚悟していたのに、予想もしない事態の前で体の力がぬけていくのでした。そうして、いま、わたしの膝下でのたうちまわっている男をいたぶってやろうと。そうだ、わたしをさんざんもてあそんだように、逃げまどう男をぎりぎり追いつめてやろうと。 彼は戦場の兵隊さんみたいにホフク前進しています。ようやく、開いている引き扉の敷居に指先がとどくと、苦しまぎれに水の中から首をもたげた蛇のようなしょぼくれた顔を店の奥に向け、 「おいっ、おーいっ。カツ、カツ子ーッ!」 とふりしぼって言ったのです。 「なあんだ、いやなひとだね。やっぱり奥さんのところがいいんじゃないか。そうならそうと、はじめっからいってくれればよかったのに。」 わたしはへんに肚がすわっておりました。だからそう脅していながらも刃物をひらひらゆすらせて追いつめていきました。そのたびに彼は、よせ、よせっ。な、おまえの姉さんと、なっ、よせよ、早まるんじゃないよ。おちついてくれ。あのな、姉さんたちとは話がついたんだ、としどろもどろ。話なんてついちゃいない、坊やを抱きしめて泣きつづけているあいだに、あんたが強引に幕引きしただけのことじゃないか。おそらくわたしのなかのわたしとはかけはなれたもうひとつの人格がこのような分別のないおこないをして、男に詰め寄っていたのかもしれませんね。 彼はまたも奥さんを呼んで、すがろうとしました。ただならぬ気配を察して、板の間をパタパタ駆けてくる人影は、まっ、どうなさいましたのっ? と慌てふためいて土間に降りました。わたしは瞬時に大八車の陰にかくれたのでした。奥さんが彼に手を貸そうとすると、いや平気だ、何でもないんだ、この敷居にひっかかって転んだだけだから、などと言い、起き上がってはズボンの土ぼこりをたたきます。お顔の色がよくありませんよ、しばらく横になって……。この後も二人は睦まじく話をかわしたのですが、わたしはそれらに耳をそばだてて聴いているうちに、カツ子さんという一人の女性を健気で、哀れで、いとおしくさえ感じたのです。他所の、見も知らぬ女を身ごもらせた夫にたてつくこともせず、しかも、その子を我が子として養うという器の広さには、わたしはなすすべがありません。なみだをぬぐって、ふと地面を見ると、さっき彼が尻もちをついたときにできたまるい形がのこっているのです。……女は弱いんじゃないわ、その気になれば男に逆ねじを食わせて奈落の底に陥れてやれるんだわ、そう思えてきたのでした。ひらき直ったことで少しずつ気が晴れ、軽くなっていったように感じました。 わたしは、それまでのわたし自身と愚にもつかぬ男に決別し、結果的には二人の姉妹の告げたとおりの別人になって生まれ変わる、そう心に刻みつけました。そうするために、最後にすることがありました。 わたしは満身の力を込めて米俵に包丁を突き刺しました。一度突き、二度刺し、三度、四度、と傷つける。ぱら、ぱらっ、ぱらぱらぱらぱら、と刺し口からつぎつぎとこぼれて止まらない白米のしづくが音をたてて……。
それから数年がたった後のことでした。ある夏の日、わたしはこれっきり、これっきりだと自分で自分に許しを乞いK町に降りたったんです。駅に着いて改札口を通るときにはふしぎとためらう。やっぱり会わずに帰ろうって……。もうすでに、あの児とは縁が途絶え、結びつけるものは何もないんだもの……。 なのに、この数年のあいだ、夢枕に、あの児がいくどとなくわたしを母さんと呼び、はしゃいでみたかと思うと泣きべそをかいていたりするのでした。マシュマロみたいなちいさな手指、まっ赤な頬のふくらみ、ドングリの木の実に似た突起……、などの肉感がわたしの体内に滲み込んできたのでした。夢がもたらすあの児への追慕の念は強まり、抗いきれずとうとうわたしはやってきてしまった。けれども、わたしは日盛りの街のなかを、人目をはばかるようにして歩いている自分に気づいたのです。なんだか罪人のようでありました。事実、わたしは我が子を捨てたひどい母親でしたから、そうであってもおかしくはないのでしょう。日傘の下に隠れるようにして、新ちゃん、あんたをひと目、この目に焼きつけようと、そこへ向かったのでした。 駅通りをまっすぐに西へ行くと、二ヶ所目の四ツ角に金平糖を商う菓子店がありました。店の軒端には金平糖の形をしたブリキの看板が下がっていました。ここを右に折れていけば、大川米店は目と鼻の先です。けれども、わたしの足がその先へ踏み出さない。店の中でせんべいやまんじゅうや最中を買いながら、ためらっていた。それとなく、店のひとに大川米店はどうなっているのか、様子を尋ねたりしましたが、あんまり深く訊くものですから不審がられて、それを潮に店を出ました。まぶしい日差しがなおいっそう強烈に感じました。そうして、心臓がはげしく高鳴り、いちだんと打ち続ける、そのときでした、現れたんですよ。 ふいに、まっ白なランニングシャツを着た男の子が炎える陽のゆらゆら揺れる透明な幕の中へ、路へ飛び出してきたのでした。……まさか……、あの児が……。駆け寄っていき、胸に抱きしめたい衝動を抑え、日傘を傾け顔が見えぬように、ゆっくりと近づいていきました。……その子は右掌ににぎるお金を落とすまいとしているようでした。あっ、きっと金平糖屋さんにいくのだわ、と思っていると、わたしとその子の距離がせばまってくる。汗が浮いているのを拭いもせず、むしろ冷や汗で気を失うのではないかと感じるほどに混乱する思いで、男の子の一挙一動を見つめておりました。すれちがい様に視た顔の、うりざねに、少し厚いくちびる、切れ長の一重まぶたは、それはまぎれもなくわたしの産んだ子だったのです。 「坊や……」 そう、ささやきかけたように思います。 可愛らしい脚でわたしのすぐ脇を歩きぬけようとしたときに、もういちど、坊や、と語りかけましたのに。けれども、わたしの語りかける声よりも、あのひとの声の方が強かったんですね。 「しんたろうッ。」って呼ぶ声がして、あなたはふり向いた。わたしは日傘の先をちょっぴりもたげて声の主を畏る畏るさがしました。 カツさん……、そのひとでした。わたしからあなたを無理やり奪い獲った女(ひと)です。品の良い端正な面立ちを見ていますと、しぜんにじりじりと胸の奥が焦げついてきて憎らしくなってきてしまいました。彼女はあなたに、 「お店に入ったら、きちんと、『くださいな』って、あいさつしてから買うんだよ、わかったね。」 と言い含めるように、大きな声で言うのです。母親をいっしんに見やり、あなたはうなずく。店に姿が入っていくまで、ずっと見送っているカツさんへ、わたしは憎悪など抱いてはいけないという想いがこのときもかけ巡っていたのです。カツさんの夫の強引な求愛に折れてしまったわたしの身の不始末は、カツさんを、じつは苦悩に陥しめているのだ、他所の女に生ませた子を自分の子として、こうしていま育てている、だからわたしはカツさんの前にひざまづいて深謝しなければならな、そういう気持ちに追い込まれました。 米屋の店先を歩み去るとき、わたしは汗なのか涙なのか、顔がびっしょりとぬれておりました。ぜったいに後ろを見ませんでした。……どこをどう歩いたのか。たどり着いた所は、十年年前にわたしが勤めていた製糸工場が見渡せる土手の上でした。赤レンガ造りの高い煙突からは灰色の煙が立ちのぼり、操業中の機械の音がきこえてくるのです。夏草に腰を降ろし、何ももう考えられぬ頭で、日傘をくるくると回していますと、だんだんと体の力が抜けていくようで、それにつれて胸にわだかまった重いつかえまでもが、蒸し返す日ざしに蒸発していくようでありました。あきらめるってことが、こんなにもこころを清々しく、やすらかにしてくれるのか、と哀しい実感を味わったのでした。 右へ左へと気ままに日傘を回して、土手の小道を歩いていますと、アイスキャンデー売りのちいさな幟旗がひらめくのが目にとまったのです。そのとき何だか、あの子はさっき、きっとアイスクリームでも買いにいったんだ、と思い、わたしはキャンデー売りの自転車に駆け寄っていき、 「おじさんっ、二本、ちょうだいっ。」 と言いました。 すると、麦わら帽子のオヤジが、 「こう暑くっちゃ、二本ぐらい食べたくなるよなっ。ありがとよ。」 と気のいい応対をしましたので、 「ちがうよ、一本はあたしの分で、もう一本は子どものだよ。」 そうかい、とオヤジは言って、その子をさがすように周辺に目をやったのです。わたしは、むしろ落ちつきはらって、微笑さえうかべて、こう言えたのです。 「……ここにはいない子どもの分まで、あたしがごちそうになるんですよ。」 オヤジは察したように、 「そうだったのかい。……じゃぁな、もう一本おまけしとくから。いや、二本だ。お客さんとその子のためにな。」 ……わたしは泣きじゃくりながらアイスキャンデーをほおばっておりました。
四
――クションッ。 圭太がオバちゃんの背中でくしゃみをした。あれれっ、カゼでもひかせたらたいへんだ、ととたんにオバちゃんは窓を閉めた。 「あんたの長話に、この子も呆きちゃったのさ。」 「ごめんね。ついつい、しゃべっちゃって。」 夫の方には顔をやらずにオバちゃんは圭太の父に言った。 「いいんですよ。……俺の知らない、もう一人の俺と母さんがせいいっぱい、その時代に生きてたんだって……。じいんと来てますよ。」 父が茶ぶだいの前に座って、空のとっくりを見つめて言った。 赤羽線が夜更けた街をゆるやかに走り去っていく。 夫が台所から燗酒を一本つけてきた。 「新ちゃん、呑み直そうや。」 すると、圭太を隣室に寝かしつけたオバちゃんが、 「あたしもすこしお相伴させてね。」 と言った。 「おい、だいじょうぶか?」 夫が気遣うよりも前に、彼女は盃を圭太の父に差し出していた。 父は注ごうか注ぐまいかためらった。 「どうしたの、新ちゃん。はやく注いでよ。」 促されて父はとっくりを傾けた。盃に触れるときカタカタと鳴った。 オバちゃんがまるで三三九度のように呑む様子から目をはなさず、父はかしこまって正座した。 「いやだなぁ、そんな怖そうな顔されたら、お酒がいただけなくなっちゃうよ。」 オバちゃんはにこやかに言った。 「新ちゃんも、さあ、どうぞ。」 こんどは彼女が注ぐ番だった。けれども父は、それを受け取ろうとはしなかった。 「じゃ、手酌で」と彼女が自分の盃に注ぎ足そうとすると、父がつぶやいた。 「『新ちゃん』はやめてください。」 「……」 「しんたろう、でいいですよ。そう呼んでください。」 「……」 オバちゃんのなめらかな頬をすうっと滑り落ちた涙のしづくが、くちびるをつけている盃の中に溶けた。 ー了ー
上記作品の他で、当HPに掲載している澤 治夫氏の作品には次の6作品があります。 1・「友 よ」(「青鮠」第2号) 2・「銃 剣」(「青鮠」第4号) 3・「そらいろのデュオ」(「青鮠」第5号) 4・「掌 説」第1輯「迷子っ地」他4編(計5編) 5・「掌 説」第2輯「霧の森から」他4編(計5編) 6・「掌 説」第3集「トレモロ」他4編(計5編)
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