私は、その当時、警官として台湾に渡った父、父との写真見合いで結婚を決め 一人で台湾に渡った母は、港で待っていた初めて合う父と警察宿舎に二人で 住んだという。そこで生まれた僕は訳の分からぬ台湾生活を過ごしている。 一年前に生まれた姉は、病気でなくなったという。記憶は薄い・・・・。 日本本土の戦後は知らないが数年後やっと引き上げて、鹿児島で一ヶ月 胃腸不良で入院した鹿児島病院を退院し、母の実家に引き上げてきた。 小さいながら、立派な戦争経験者の一人だと思い出したくないが、忘れる 忘れたことはない・・。思い出すことは少なくなってはいるが・・・・・
「焼夷弾の雨 辺りは火の海」 <読売新聞 8月15日 気流 >
◆ 1945年夏、夜中に「B29」が独特の轟音(ごうおん)を響かせて来た。 当時、兵庫の西宮市に住んでいた私は国民学校4年生だった。 空襲警報のサイレンが鳴り、私たち家族が防空壕に入った直後、 焼夷弾の雨に見舞われ、辺りは火の海と化した。頃合いを見て、 父の誘導で近所の小川に逃げた。 母の頭に布団をかぶせ、上から水をどんどん掛けてくれた。 近所の商店では瓶がパンパンはじけて、飛び散っていた。小川 付近の壕(ほり)の外で、幼い子が泣いていた。足には火のついた 油がべっとりとついていた。 ◆ 翌朝、焼け野原を歩いて、自宅のあった場所に戻ったが、跡形も なかった。あの子は亡くなったと、母が痕で教えてくれた。 戦争はむごい。テレビで見る戦争ドラマとは違う。 無職 沢田 淑子 さん 80歳 (石川県小松市)
| 外国にいた小さい子供だったので、戦争いや敗戦の日本は今でも忘れたくても 忘れられない年代である。 戦争して、負けて、苦しんだ我々世代は、自分たちに責任はないとは確信して いるが、複雑な年代ではある。 妻も、広島近辺に住んでいたが、原爆が落とされた時は、母と共に府中市に 疎開していたので逃げられた。わが夫婦は原爆の影響に苦しんだ。 もちろん一番大変だっのは、私たちの親であったのだが、今はいない。 天空から覗いてくれている。妻はタンスに奉った両家の写真を飾っている。 私の両親及び妻の両親の位牌を全て造り、タンスの一角に飾っています。 妻は毎日?週に2〜3回?新しい果物を買った?折りなどに飾っています。 飾るより食べた方がいいよと言いたくても言えません。 一度、ご両親の位牌に頼んでみようか〜〜〜
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